先日、主に現場出動を行っている施設の医師が集う研究会が東京であり、参加してきた。

 その中で、ロンドンの救急ヘリ(LONDON-HEMS)についての報告があった。その内容で、印象深かったのはふたつ。

 

 ひとつは、彼らにとって、オーバートリアージという言葉は存在しないということ。日本では、ドクターヘリを呼ぶ際に基準を設けて、重症患者を対象としている(軽症患者を重症と考えトリアージすることをオーバートリアージと言う)。だから、実際に、出動すると軽症な時があるが、日本ではこれを「オーバートリアージを容認する」という言葉を使い、ドクターヘリの啓蒙のためと、軽症の中に重症が隠れている見逃しを防ぐために、オーバートリアージという言葉が存在する。

 ロンドンではまさに、ヘリが救急車と同等の救急搬送手段となっているのだろう。

 

 二つめは、ロンドンでのヘリ運行は、主に寄付金やスポンサーによってまかなわれているのだが、数ヶ月の運行資金しか集まらない場合はどうするのか、という質問に対して、「ある資金で運行するしかない、数ヶ月先のことはわからない」との返事だったとの事。この報告の演者は、このことを、とても実行力のある考え方と賞賛していた。

 

 我々のMESHの現状を考えると、寄付金・会員数の増加に伴い、確かに数ヶ月の運行のめどは立ってきたが、航空会社との契約を考えると、数ヶ月単位での再運行は困難であり、他国の彼らの行動をただ単に賞賛して終わる気持ちには、感覚的に程遠いものがある。

 

 私には、ロンドンでの救急ヘリは他国の出来事には感じられない。現在の我々の歩みに、近いものがあり、今まさにその真っ只中という感じだ。

屋良アトリエ絵画展

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絵画展会場今日は、午後から、屋良アトリエ絵画展の準備があった。

5月から絵画教室に通い始めた私にとっても、初めての出品である。場所は、名護博物館ギャラリー。絵画を、壁に2段ずつ掲示していく。絵の位置、ならべ方などを指導してもらいながらの作業だった。平日にもかかわらず、教室に通っている生徒さんが(ほとんど仕事を持っている老若男女である)多く集まってくれた。

最初、展示をする前に、会場の中央に集まって、屋良先生の雑談ともつかない、むしろ、こういう絵画の展示場に来て、心がけることを、真剣に話してくださった。

絵を展示する壁にも順位があること、絵を見るときの距離にはどういう意味があるのか、展示会を開催するとき主催者はどの位置に座すべきか、などを丁寧に説明してくれた。それは、将来我々の中で、展示会を主催する立場になった時の心得の様なものを教えてくれたのだと思う。

絵を習い始めると、他の人の作品を観るために、美術館に通ったり、本を読んだり、と向上心が芽生えるものである。実際、私も今、その傾向にある。先生はその時、また、壁にぶつかり、悩むものだという。絵を描く心が進歩する度合いに、自分の技術が伴っていかない、そういう壁にぶつかるのだろう。

でも、その壁にぶつかるのは良い事だという。自分が成長するから壁にぶつかるのだから。

一芸に秀でる方の言葉は、重みがあり、人生の修行は、どの道も変わらない事に気付く。

21日~30日までの期間、どれだけの人が観に来てくれるだろうか。絵を描くことの楽しさもさることながら、絵画展に参加する喜びを共に共感できるといい。

屋良先生のご好意で、受付にはMESH救急ヘリの募金箱が設置される。ありがとうございます。

皆様のご来場を心よりお待ちしております。

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  20081026日(日)伊江村のミースィ公園で行われた第35回伊江村老人婦人運動会においてMESH救急ヘリ運行協力の募金活動にお招き頂きました。これは、伊江村婦人会(会長;内間美枝氏)から自主的に募金活動のお申し出があったものです。MESHを代表して、当日の診療所勤務と会場の救護班待機を兼ねて、MESHの広報活動を展開してまいりました。

 朝から素晴らしい天候(『伊江晴れ』)に恵まれ、ミースイ公園の綺麗に管理され青々と育った気持ちのいい芝生の上で、年齢や体型の問題を感じさせないはつらつとした競技が展開されました(写真1-4)。

 その競技の合間に、全島を8つの区に分けて結成された各チームのテントを訪問し、MESH救急ヘリコプターの現状と問題点などを口頭でご説明して、1000円サポーターと募金へのご協力を訴えました。

 最後に、閉会式でさらに3分の時間をいただき、ご協力のお礼を述べると同時に今後の継続的ご支援(1000円サポーターへの入会)をお願いしてまいりました。

募金総額は約112,348円に上りました。

最後になりましたが、開会式で披露された、内間会長自作の放送原稿(写真5-6)を、添付させていただきます。会長のMESH救急ヘリコプター運行継続に対する熱いお気持ちが伝わってきてたいへん感動させられました。

伊江村婦人会・老人会を始め島民の皆様、そしてお手伝いいただいたスタッフの皆様、ご協力ほんとうにありがとうございました。   (伊地知 寿 記)

 

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たらいまわし事件について

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先日も東京都で、妊産婦のくも膜下出血の方が、6つの病院で断られ、最終的に亡くなられた。

大都市が医療過疎化している現象か。

以前にも起こった奈良県での妊産婦のたらいまわし事件。

これは、産婦人科だけの問題であろうか?小児科、産婦人科の医師が少ないことが原因なのであろうか。

大阪府でも、心肺停止の患者が、13の病院に断られるという事案が起こっている。

奈良県では、大学を中心として、妊産婦の受け入れを拒否しないような、システム作りを開始しているが、果たしてシステムの構築によって解決できる問題だろうか。都市部では、かえって病院が多く存在し、責任の所在がはっきりしていない現状がある。自分の病院が診なくても、他にも病院があるからいいだろう、という発想である。個々の病院が、救急病院として機能しているのであればいいのだが、救急病院として看板は掲げているのだが、実際は当直のアルバイトの先生が泊まっていて、科が違うからその患者は診れない、というケースもある。

 

かえって、地方あるいは病院が少ない地域ほど、救急車の受け入れは100%に近い。後方病院への搬送手段の問題はあるけれども...

 

国は、本腰を入れて救急医療の問題に取り組まなければならない。また、県単位でも、救急医療体制の構築に力を入れるべきである。

医師会を中心として、夜間の当番制を置き、また、専門の病院を振り分けるなどの対策を講じている地域もあるだろう。

しかし、もし、たらいまわしが発生した場合、その時は、緊急の異常事態(災害など)のモードに変換し、強制的にも患者受け入れを行う体制が必要に思う。災害モードとは、病院の受け入れ態勢(医師、看護師、ベッド数など)をはるかに患者、傷病者の数が多く上回る状況である。オンコールで職員を呼び出し対応することである。

たらいまわし事件を回避する為に、この異常事態発生の危機管理を行う事が重要である。

 

私も、救命センターで仕事をしたこともあるし、夜間診療所的な比較的軽症の多くの患者を診る病院、診療所で働いたという経験もある。使命感に燃え、一生懸命働く人々を見てきた。

しかし、現実に断るケースがあるのは事実であり、断った側にも一方的に責めることが出来ない事情もあるであろう。

大事なことは、もし断らざるを得ない状況であっても、その患者がどういう結末を取るのか、気にかける事が大切だと思う。自分の家族だったらどう対応するだろう。もし、他に受け入れる施設がなかなか見つからない時は、救急隊にまた、連絡を取るように依頼することが患者を救う道だと思う。救急医療は救急を扱う医師だけの問題ではない。医師である以上は責任を持って対応すべき問題と思う。

たらいまわし事件の根幹には、この心の問題も隠れているように思う。

このブログの、「救急の心」はそこにある。

少女からの贈り物

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 遠い異国から一家3人で移住してきたのは5年前

その後母親の病気が発覚し1年間の看病生活

昏睡で徐々に衰えていく母親のからだを

無心に拭く父親のかげで

少女はいつも戸惑いがちだった

 

小康状態のある晩、

翌日の発表会の成功を誓って

少女が一瞬帰宅したその合間に

母親の心機能は限界を迎えた

 

駆けつけた親族はたった数名

控えめで物静かだった家族から

堰を切ったように投げかけられる嗚咽・号泣は

異国の言葉

しかし一つ違っていたのは少女から発せられた声

それは、おかあさん...確かな日本語だった

 

ひとしきりの涙のあと

覚えたての化粧を母親の美貌に施して

見送るスタッフに静かに

潤んだ瞳から投げかけた少女の視線は

確かに何かを伝えたそうだった

 

 故郷での大家族の10年間と

3人で海を渡って過ごした5年間

最後の1年間は母親に会うための通院の日々

父親との二人三脚

明日からはそれがどのように変わるのか

願っていいものならば、どうかこの土地を

つらい思い出の地に終わらせないでほしい

 

翌朝父親から携帯に連絡

お通夜の日程の報告とありがとうの言葉

故郷で死ぬより、妻は幸せだったかもと

 

そして、何より嬉しかったのは

母親との最後の別れを前に

少女が予定通りに発表会へ出発したという報告

涙をこらえて、仲間と懸命に演奏する姿を

遠くから拝み、また心が濡れた

 

たくさんの『ありがとう』を残して去っていった家族

そこに僕らの『ありがとう』を加えて

再びこの家族へ贈りたい

 20081015日 救急部・脳神経外科 伊地知 寿)

ああー、英語力...

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大学時代に英会話のサークルらしきものを作って、中国出身のカン君や大阪出身のS女史などとやっていたが、飲み会が多くあまり成果の上がらないサークルだった。

思い余って、英会話スクールなどというところにも何度か通ったが、新しい人が入ってくるたびに自己紹介ばかりが多く、また、簡単なゲームなどを取りいれた授業であまり身にならなかった。自己紹介だけがうまくなった。

いくつかのスクールを経験したが、その中で唯一すらすらと英語が頭に入ってきたのは、同じ事を何度も繰り返して読まされたときだった。その時、あれっと思ったのを覚えている。

それでも留学したい気持ちが次第に強くなり、アーストラリアに出発することが決まると、個人指導の英語教室に通い始めた。インドから来ていた留学生できれいな英語をしゃべられるご婦人だった。何かテーマを決め、約1時間会話をするのだが、自然と口から英語が出てくるときもあったが、それは自分の得意分野の話だけだった。留学の面接でオーストラリアに23日で行ってきたが、その時のカンペを彼女に作ってもらった。

留学中は、最初の約1ヶ月で完全にノックアウトを食らい、人嫌いになり、かなり落ち込んでしまった。でも、せっかくここまで来たのだからと、なんとか気持ちを切り替えて(ポジティブ思考ですな...)、乗り切った。病院食堂のおばさんとも仲良くなり、少し食事代をまけてもらったりした。少し、テレビやラジオの音が聞こえるようになったかな、と思っていたが、向こうで買ったラジカセなどを中古で買い取ってもらうときに、なかなか店員さんにわかってもらえずガクッと落ち込んだ時もあった。

 

今も、英語だけはなんとか身につけたいと、必要に迫られ頑張っている。

これまでいろいろ試してみたが、基本となる英語を、たとえば高校時代の「英作基本文例600」など、何度も繰り返し、聞いて、発音して、覚えることだとわかった。

もうこれは勉強などと頭を使う作業ではない。もうきつい、だめだ、限界だあー、などと叫びながら、ひたすら汗を流しながら続ける、筋トレみたいなもんだ。

そう、「ああ、頭使わなくいいんだあ」、と思うと少し気が楽になる。

 

人生遅くはない、これからも頑張るぞ。

Blog08828.jpg前回は救急のスタッフの看護師の筒井君が投稿してくれました。いろいろな人が参加しますので楽しみにして下さいね。

さて、先週は、北九州の救急救命研修所へ講師として行ってきました。
救急隊員が救命士としての研修を行う施設なのですが、日本には東京と北九州に2箇所あります。半年間研修所に住みこんで、合宿のようなかたちで研修を行い、最後の1週間で総合シミュレーションという形で実技試験を行うのです。
今回は、薬剤実習ということで、既に救命士となっている人たちが、5週間の薬剤投与の研修を終え、最後の実技試験でした。
その様子を写真に載せました。
試験の際は、一緒に学ぶ隊員が患者、医師、家族、関係者などの役割を演じ、約20分間の実技を行ないます。
本番さながらの緊張した時間です。彼らの真剣さが伝わってくるので、評価する自分も気が抜けません。

しかし、彼らは、研修を終え地元に帰った後、すぐに薬剤投与ができるのでしょうか。病院実習を行い、実際に心肺停止の患者さんに対する薬剤(エピネフリン)投与を経験して初めて、現場での投与を許されるのです。
地域によっては、心肺停止の患者の症例数に差があり、病院実習中に心肺停止の患者さんに遭遇するのは大変です。
実に、長い道のりです。どうして、こういうことに時間がかかるのでしょうかね。

地域によっては、患者の救命のためにも、救命士が除細動と同様に早期に薬剤が投与できるように、いろいろな対処策を考えているようです。

「早期に治療を開始する」
命に危機が及んでいる時の救命にはもっとも大切なことです。

Blog08825.jpg「最強の看護師になれ」、先輩ナースからこう言われ、早や7年が過ぎようとしている。

 最強の看護師ってなんだろう?自分のなかで、自問自答しながら過ごしてきたこの7年間、先輩の言った意味が理解できずに時が経っていった。

 私が救急を目指したのは5年前、ちょうど沖縄に来たときにとある病院の救急に勤務したのがきっかけだった。しかし、ただ業務をこなす日々が続き、一般的な心肺蘇生でさえもままならない現状を目の当たりにし、こんなことでは駄目だ!と奮起することになった。救急の基本である「心肺蘇生法から見直しをしよう」そう思い、心肺蘇生法のコース立ち上げに奮闘した。そうしていくうち、自分自身もいろいろな医療のコースを受講し、ついにヘリコプター救急への道を歩み始めたのである。

 憧れていたフライトナース、少しでも早く患者さんの元へ行き、絶対に命を救うんだ!そう思い、さらに内地まで行って勉強をした。しかし現状はそんなに甘くはなかった。病院から出て、過酷な環境下でナースは一人だけ。その中で、救える命を救うためには、救急看護として学ぶべき事のほかに、まだまだたくさんの課題があった。その一つとして、「救助」を消防と共に行わなくてはならない現状があった。自分の安全を確保しながら、患者さんのフィジカルアセスメントを行い、さらに救出、搬送も行わなくてはならない。

 私は次に、この「救助」という課題に取り組むことにした。レスキュー看護師を目指しているのである。

 ヘリも運航して1年が過ぎた、そして新しい目標が決まった、看護師になり、7年が過ぎようとしている。いつだっただろうか、最近になり、先輩が言ったあの言葉を思い出した。「最強の看護師になれ」。今になって思う、「最強の看護師なれ」とは、「最強の看護師であれ」ではなく、最強になるために常に努力しろ、という意味だったのだろうか、と。

ヘリがバラバラだー

われらが愛する機体、MESHヘリ(9963)は今、年に1回の点検整備に行っています。
車の車検のようなものですが、より一層安全に運行するため、車以上の手間ひまを要し、約1ヶ月間もかけて入念に行われます。
写真は、現在、名古屋の格納庫で、点検整備中のわれらが愛機9963です。
結構バラバラな状態になっているので、びっくりしました。
再度組み立てなおす作業も大変と思いますが、1年間の安全運行を願って汗だくだくで働いてくださる整備士の方に感謝です。

9月に再会できるのが楽しみです。

 今日は、少し専門的な話になってしまった。

 日本の医学教育では、ここ最近、外傷(交通事故や転落事故などの傷害)に興味を持つ人々が増えてきた。
 以前は、日本の医学の分野では、交通事故などの外傷患者に対する標準的な教育は行われていなかった。救急の分野で、癌の手術だけではだめだ、救急の外傷患者を救いたい、という人々(主に外科医)が先駆者となって、日本での外傷学は発展してきた。しかし、当時の日本では体系的な教育がなく、皆経験を重ねることで、主に救命救急センターという職場で教育を受けてきた。
 僕は、医師となって最初の4年間は救急部に所属し、様々な外傷患者を診てきた。しかし、患者を救うためには外科医としての修行が必要だと考え、その後、外科の道にすすんだ。外科医として7年間、胸部外科(肺癌、乳がん、縦隔腫瘍など)、腹部外科(消化管、肝胆膵など)の腫瘍学を中心に、緊急手術もこなし修行した。その中で、交通事故の少女を救えなかったことが原因で、外傷外科を自分のすすむ道と決め、外傷学とは何かを求めるようになった。
 日本の外傷に関する教科書を読み、外国のテキストを読んだりしながら、いつしか外国で外傷の勉強をしたいという気持ちが強くなった。当時、日本には医師を対象とした外傷のコースがなかったため、香港に行き外傷コース(ATLS:Advanced Trauma Life Support)を受講した。
 その後、オーストラリアに渡った。オーストラリアは、米国と違い、銃や刃物などによる鋭的損傷(外傷)よりも、転落、交通事故などの鈍的損傷が多く、その外傷形態が日本に近かったのが、オーストラリアを選んだ理由だ。
 その施設は、オーストラリアの南東の地域の中心となる外傷センターで教育病院だった。そこには、外傷外科医になるために外科医が外傷センター(Trauma Office)にローテーションでやってきていた。しかし、日本と違っていたのは、その施設にいるすべての外科医が、外傷治療のトレーニングを受けており、緊急の外傷の手術に習熟していたことだ。

 ある日、交通事故の患者が搬送されてきた。
 その患者は、比較的血圧が安定していたため、救急外来を担当した医師は、初療で検査をオーダーし、患者をストレッチャーで移動させていた。比較的、のんびり時間をかけていた。私が、腹部を触診した際、腹膜刺激症状(腹膜炎のときの所見)を疑わせる所見があり、Directorのマイケルにそのことを告げた。すぐにCTをオーダーし、腸間膜損傷を疑い開腹することが決定された。マイケルは私に執刀するように言った。
 手術に入る前、一緒に手洗い(手の消毒のこと)をしている時、マイケルは言った。
「Yoshi、これがTraumatologyだよ。」と。
「あー、そうなんだ。これがTraumatologyなんだ。なにも、難しいことではないんだ。」本や教科書を読んでいただけでは、わからなかったことが、この一言で、目の前の霧がスーッと晴れたような気持ちだった。
 私の留学は、この一言で達成した、と思った。オーストラリアを去るとき、
「君はファミリーだよ」と言ってくれたこともうれしかった。

 外傷学は、外科医だけのものではない。外傷患者が運ばれてきた時に、何が最も緊急性があるのか、何を先に検査をしなければならないのか。その優先順位を選択し、マネジメントし、患者が助かる最善の方法(治療法)を選択し、実行する学問である。

 今の日本で、そのトレーニングの場はどこにあるのか。CTや血管造影などの設備が整った外傷センターなどの施設を造り、外傷患者を集めて、そこに外傷を学ぶ医師を集約するのも一つの方法だろう。しかし、設備の整った恵まれた環境で外傷外科医は育つのだろうか。設備のない、整形外科、泌尿器科、呼吸器外科、消化器外科、脳外科、形成外科のいない施設にも外傷患者は運び込まれているのが現状だ。
 
 今、伊江島という離島に時々、診療で行っている。もし、外傷患者が来て、夜中や、搬送に間に合わない時は、自分でやるしかないと覚悟している。
 しかし、大きな病院にいる時は、各科の先生に任すところは任せるというスタンスを取ると思う。その時、外傷患者の全体を見て、何を優先すべきかを常に考え、患者のそばを離れないことが自分の役割だと考える。
 それが、外傷学Traumatologyを目指してきた、自分の果たすべき仕事だと思う。
2008年7月26日
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